空を飛ぶ自動車のためのスカイウェイは崩れ落ち、
宇宙方面行き航空便の欠航が数十年続いた時代。
人類は文明の疲弊を嘆き、
ある者は宇宙へ新天地を求め、
ある者は地下へと潜り、
ある者は人類という種を超えたものへの変容を試みようとしつつあった。
それらは順調に進んだとは言い難く、
無用の長物として封印されていた核弾頭が世界各地に降り注いだ時、
緩やかに衰えつつあった文明は、ついに息の根を止められることとなった。
さて、その終息からおよそ500年。
技術や歴史を消失し、混乱の時代を超え、見せかけの安定を迎えた時代。
物語は、この困難な時代から始まる。
かつての北米大陸はその殆どが砂漠地帯となり、
各地に残る高層ビルの遺跡群が、世界有数の経済国家であった名残を語るに留まっていた。
逆三角形のシルエットが、砂埃の尾を引いて、ビル群の蜃気楼の前を通り掛かる。
砂埃の根元には、それを指揮するかのように上に向けられた太く長い尻尾。
その尻尾の持ち主は窮屈そうに小さなバイクに跨り、周囲を見渡しながら
かつては大きな道路であったであろう遺跡の上を走り続けていた。
かつてヒトを超えた種を作り出し、文明の継続を図った者の中には、
野生動物-その頃には種としての生命が途絶えたものも少なくなかったが-の遺伝子を人間と組み合わせ、
強靱な肉体、または洗練された頭脳を得ることを夢見る潮流があった。
動物の素養を多少は発現させることには成功したものの、
それは人類文明を再発展させるほどの成果には至らなかった。
ただし通常の人類とほぼ等しい寿命を持ち、何ら遜色のない知能、言語会話能力は、彼らを社会に適合させることを可能とした。
獣との混血である出生と、動物が立ち上がったかのような容貌は多くの人々、特に西洋の古典的宗教観からは大きな拒絶を受けることとなったが、
各人が生き残る術のみを考えるしかなかった時代を得てからは、互いへの差別感情はほぼ無くなったと見て良い。
彼らはanimalを逆から読んでlamina, ラミナと呼称されるようになった。
残存した文明と社会の程度こそ大陸によって異なるものの、
おおよそほぼ全域で、ラミナは社会に浸透している。
文明消失後の荒れた地球環境はむしろラミナではない人類の生存は難しい場合が多く、
地域によってラミナか否かの割合は大きく異なっている。
小柄なバイクに跨り疾走するこの男、ゼッタ・オル・サイポックはユキヒョウのラミナであった。
遺伝子ベースとなったユキヒョウのように五体と尾は厚い毛皮に包まれ、
本来厳しい寒さから身体を守るそれは、陽炎が遠くに浮かぶ土地で、彼を暑さで苛んでいた。
日光を防ぐために長いマントを被り、ゴーグルを掛けて風を受けているものの、身体は熱を逃がしてくれない。
北米大陸では人々が集団生活を営む村レベルの集落が幾千もの数で存在していたが、
州や国レベルの行政単位は現在のところ成立してはいない。
何らかの事情で村を出る者は少なくなかったものの、
道楽としての旅をするものは多くはない。
強力な警察機構のないこの時代では、村と村の隙間を縫うように賊が潜んでいるためである。
「……お、町だ」
ゼッタはからからに渇いた喉から声を出したことを後悔しながら、
肩に掛けたバッグの中身を覗いた。
水も食料もそろそろ尽き掛けている。
書類を綴じ込むような薄いフィルムが詰まったバッグの中身をぺらぺらとめくりつつ、
ゼッタは市場で買い込む品物の見当をつけていた。
ついでにエレバイクの充電もしなくてはいけないと思い目を前に向けると、
目の前に横切る丸太。
声を出す間もなくゼッタは頭をしこたま打ち付け、
前方に吹っ飛ぶバイクから取り残されて大地に倒れ込んだ。
- Rachel Narasimha
名前の刻み込まれた質素な墓標の前で、ゼッタは膝を抱えて座り込んでいた。
慌てて用意されたのであろう木の枝や鉄くずで粗末にあつらえられた墓標が、
彼のいる墓の前後左右にも拡がっている。
彼の座る丘の麓には、全てという全ての建築物が破壊された集落。
「ここにいたか、ゼッタ」
馴染みのある声を聞いてゼッタが振り向く。
「……副隊長はどこに行くか決めました?」
「今は一応隊長だよ。親戚をあてにして東に向かおうと思う」
左腕のない虎のラミナが、疲れた顔でゼッタの肩に手を掛ける。
「お前もいつまでもここにいられるわけじゃない。身寄りがないのは仕方ないが、この村はもう終わりだよ。俺と同行するか?」
「いえ、とりあえずネルガにレイチェルのことを知らせに行きます」
ゼッタはゆっくりと立ち上がり、副隊長の誘いを断った。
「友達思いなのは良いが、まずはお前の命を考えて……」
「わかってます。でもネルガは俺の友達だし、レイチェルは……」
「これ持っていけ」
俯くゼッタの言葉を遮って、副隊長がバッグからトンファーバトンを取り出した。
銀色に鈍く光るそれは、この集落の自警団の幹部クラスに配備されるものだった。
「お前は旋棍術も得意だったし、何かの役に立つだろう。俺には一本で十分だ……ネルガに会えたらよろしく伝えておいてくれ」
「はい」-
「……くん、ユキヒョウ君」
酷い頭痛と共に3週間前の記憶がゆっくり溶け、誰かが呼び掛けてくるのが聞こえてきた。
何かに縛り付けられている感覚を把握するより先に、すぐ隣で十字架型の金属に磔にされているイヌ科のラミナを見て、
自分たちがどういう状況にいるかを把握した。
「あ、起きた?今大ピンチみたいだよ、俺ら」
オオカミにしては少し小柄な、耳の大きいラミナが馴れ馴れしい口調で話し掛けてくる。こちらからは横顔しか見えない。
小さい頃に読んだ動物図鑑で見た、コヨーテの写真にそっくりなラミナ。
「ここはどこですか?何でこんなものに縛り付けられて……」
「多分賊の地下アジトだな。気が触れてる趣味の」
「趣味?」
「このデカ十字架の上にクレーンを取り付けるためのフックが付いてる。連中が何をするかといえば…」
イヌ科のラミナが顎で方向を示す。
「使用後」らしい十字架が放置されているが、全体が油にまみれ、人の形に何かがこびり付いている。
「釜茹での刑だねえ。良い趣味してる」
事態の飲み込めないゼッタを横目に、コヨーテのラミナはにやにや笑っている。
「大丈夫だよ、多分助かる。そこから先は君次第」
根拠もなく楽天的なコヨーテを無視することで、状況は呑み込めた。
このままでは十字架ごと水だか油だかの煮え湯に放り込まれて殺される。
どうにか脱出出来ないか考えたが、
手足を巻き付ける鎖の重厚さが、ゼッタの気分を重くさせた。
自分達がいるのは薄暗い倉庫の中で、クレーンで吊り上げられるように十字架が地面の穴に突き刺さるように立っている。
倉庫の天井は15mほどもあり、自分達の置かれている状況の薄気味悪さを際立たせるには十分だった。
わざわざこれほどまでに高い天井を作る理由は、この時代には一つしかなかった。
重い音を立てて、倉庫の一面の扉がスライドする。
そこから出てきたのは、人をそのまま拡大したようなシルエット。
「カラクル……?」
本来であれば腕足装備型モービルといったような名称が付けられている人型の機械は、
北米ではまとめてカラクルと呼ばれている。
文明が発達していた時代に建造され、もはや失われて久しい技術で作られたそれは、
ヴィンテージと呼ぶのも憚られる長い寿命を超えて使われて続けている。
世界中に普及したカラクルは文明崩壊後も使われ続け、
この北米大陸のように大昔のもののサルベージとレストアを繰り返す地域もあれば、
ヨーロッパ地域のように建造が可能な地域も存在する。
民間用から軍事用まで幅広い分野で量産されたそれは、
その汎用性の高さと他にないパワーのため、現在では大きな力の象徴となっている。
扉から出てきたのは、修理を繰り返されて左右の腕の長さも揃わないカラクル。
足取りも怪しい巨人は両腕からクレーンを垂らし、
何度か失敗しつつも二人の十字架を持ち上げた。
「お上手」
コヨーテは相変わらず余裕の表情で、こっそり呟いた。
その同じ頃、彼らのいる場所の上空500m。
落雷のような閃光と音を立てて光球が現れ、一瞬にして消失した。
爆発のような現象の後には、赤い不格好な戦闘機が3機。
『各機、VFA内全モジュールのエラーチェック。完了次第、この真下を攻撃する』
ワイヤーを通した接触通信で隊長機の声と、緊張を隠しきれない呼吸音が響く。
『イークオーダ2、チェック完了。問題なし』『イークオーダ3、チェック完了。パス使用前に確認済みのエラーを11確認。作戦に支障なし』
『了解。イークオーダ部隊、作戦ポイントまで下降』
VFA-Variable Form Automatonと呼ばれた赤い不格好な戦闘機は、
シルエットこそ飛行機のそれと呼べなくはなかったが、
不自然に厚みのあるユニットが、妙に大きな翼の下に取り付いた形態をしている。
往時の戦闘機に比べれば優美さは比べるべくもないが、
兵器として見ればそれより優先するべき事項に沿った進化であることを、
戦闘を目撃した者なら理解するだろう。
このVFAの名前はウムラウト、ゼッタがこの先深い因縁を持つユーロの主力戦闘機である。
ねずみ取りに捕まったネズミを川に捨てに行くようにカラクルはゼッタとコヨーテを運び、
薄暗い通路を通って、別に用意されていた広い部屋まで連れてきた。
隅で燃やされる松明に反射して、部屋の全景を一望出来る。
部屋の中央では巨大な鍋-それこそ人を沈めて揚げることが出来るような-が煮え立ち、
それを囲むようにして宴が行われていた。
年代も身なりもばらばらであるが、全員が真っ黒なオオカミのラミナであることがゼッタには不思議だった。
ただ一人オオカミとは決定的に違う雰囲気を持つラミナが、一段高い場所にいる首領らしいオオカミの横に立っている。
毛皮の色の境界線がよりはっきりと出た動物は、おそらく犬、それもシベリアン・ハスキー系に見えた。
少し緊張感があるのは高みにある首領の席のみで、他は酒を飲む者もいればいかがわしい行為に耽る集団もいる。
こちらを嬌声を上げて見る者もいたが、その目は餌が目の前にある獣の目をしている。
中世に親族ぐるみで同類を食っていた一族がいたという話を昔本で読んだことがあると思い出したゼッタは、
まさにその一族の再来の餌食になるところなのだとようやく悟った。
その上空150m。
「目標」を警戒しゆっくり降下してきたウムラウトは、ここに来てその姿を変える。
冗長的な翼を上に折りたたみ、硬直した身体をほぐすように手足となるべき部分が伸びていく。
隠すように展開していた胸のカバーが畳まれると、戦闘機は背中にマントを羽織ったような人型の機械へと姿を変えた。
腕の部分には何種類かの武装をまとめた大きな筒を持ち、
顔には滑らかなスポーツグラスと仮面を合わせたような顔の頭部が胸の上から伸びている。
「4ヶ月ぶりだ」
「俺は脚が良い」
「馬鹿、まずはダディが決めるんだ」
こそこそ聞こえるオオカミ達の話し声に呆れて絶望する余裕もなく、
ゼッタは早々と死の覚悟をすることにした。
このご時世に理不尽な死に方を悔いても意味がない。
早いか遅いかの違いだけだ。
なるべく自分の精神を言って聞かせるように落ち着かせようとするが、なかなかうまくいかない。
「旅人よ、我らの糧になる覚悟は?」
首領らしき男がゼッタ達に話し掛ける。
「なあダディよ、この地下倉庫があんたらの根城らしいけど、白い虎に触っちゃいないよな?」
コヨーテが脈絡のよくわからないことを話し出したので、ゼッタを含めて周囲が彼を見た。
ダディと呼ばれた首領を鋭い目で見ている。
「ここにいるのは血を分けた儂の家族と、用心棒しかおらん。そんな奴知らんな」
「なら良かった、それなら……」
『時間だ、攻撃開始』
『了解』『了解』
ウムラウトがうなだれるように腕を下に向ける。
「……好きに暴れても心配事はないな」
「降ろせ。皆腹を空かせている」
オオカミの首領がカラクルに指示を出す。
調子の悪いカラクルがガタガタと音を立てて両腕を下げる。
ウムラウトが両腕に括り付けているミサイルポッドから、激しい轟音と閃光を放ち、楔形のミサイルが下に飛び出していく。
自然落下を超えた速度で大地に激突したミサイルは、次の瞬間さらに激しい爆発を広げ、大地に眩しい花を咲かせた。
強い振動が宴を揺らし、鍋に満ち満ち注がれた油を揺らす。
ざわつくオオカミ達を横目に、ゼッタは騒ぎに乗じて逃げ出せるか考えたが、左腕がするりと鎖から抜けてバランスを崩し、
あやうく油に落ちそうになる。
ユキヒョウの毛皮は寒さを防ぐために厚く、そのために手足が太く見える。
体型を誤認される恨めしい毛皮がここに来て役に立つとは、と思った矢先、
足首を括っていた鎖がほどけ、ゼッタは右腕だけが拘束された形で鎖に引っ掛かる形となった。
慌てて右腕が括られている側の梁にしがみつき、体勢を安定させようとするが、
その上に信じられないものを見た。
隣で縛られていたはずのコヨーテが、ワイヤーを伸ばすカラクルの腕の上に佇んでいた。
両腕には巻き付けられていたものであろう、ちぎれた鎖を持っている。
「なあユキヒョウ君、君は随分死ぬことに未練があるみたいだけど、何か済んでない用事でもあるの?」
先ほどまでと変わらないひょうひょうとした調子で聞くコヨーテ。
構っていられないといういらだちもあったが、ゼッタは思わず答える。
「あるさ!俺は潰された故郷の、殺されたレイチェルの分まで生きる!そしてワニ野郎に報いを受けさせる!」
十字架にしがみついて叫ぶゼッタを見下ろし、コヨーテは満足げな顔で笑う。
「気に入った。君の味方になってあげよう」
言うやいなやコヨーテは腕から飛び降り、ゼッタの十字架に着地する。
拘束台が不安定に揺れる中、器用な姿勢でゼッタの右腕の鎖を掴んだかと思えば、
あっという間に鎖を破壊した。
何者だこいつは、と思う間もなく、ゼッタはコヨーテに引っ張り上げられ、
続いて十字架から跳躍して着地した。
姿勢を正す間もなく、ゼッタは横っ面を殴り飛ばされる。
両腕を二人に突き出したハスキーが視界の隅に映ったが、
コヨーテは軽くそのパンチをかわしていた。
避けた勢いでコヨーテがハスキーの脚を払い、倒れ込んだ前で余裕にもゼッタの方を向く。
「ちょっと外に出るまで時間が掛かるから、君に頼み事をしたい。ここを右に出た通路の先、扉になっている部分の四隅をそれぞれ2回ノックしろ。
そこで開いたら中を見て来てくれ。白い虎がいるならそれでよし、いなきゃちょっと面倒だ」
ブンと音を立ててコヨーテの頭のあった部分を太い腕が通り過ぎたが、
その目標は既に下に屈み込んでいる。
ゼッタは痛む頬を押さえながら起き上がってコヨーテを見たが、
屈んだ勢いでハスキーの腹に鋭い右ストレートを決めた瞬間だった。
屈強な用心棒が折れたように吹き飛ばされる。
「早くしろ。君のバッグはそこのオオカミのお気に入りになってる」
トンファーがあれば、と思ったゼッタの考えを先回りしたかのようなコヨーテの声を聞きながら振り返ると、
慌てふためくオオカミ達の中、バッグを抱えた一匹がこちらと目が合った。
獲物を見つけた目でゼッタはオオカミに飛びかかるが、オオカミも負けじとバッグを強く抱える。
「バッグをくれとは言ってない、その中のトンファーさえあれば…」
強く抱え込まれたバッグに無理矢理ゼッタは両腕を突っ込み、黒と銀の二本のトンファーバトンを取り出す。
「勝手に奪い返させてもらう!」
両腕にトンファーを構えたユキヒョウを、丸腰のオオカミに抑え込めるはずがなかった。
バッグを持っていた個体ごと周囲のオオカミを殴り飛ばし、
ゼッタはバッグを引き剥がして通路まで走り抜ける。
それを追おうとハスキーも向かおうとするが、後ろからコヨーテが跳び蹴りを入れた。
鼻面を思い切り地面に擦るハスキー。
「俺を置いて他の男を追おうとするなんて、そんなつれない真似は百年早いよ?」
地震にしては揺れが直接的で鋭い。
しかも爆発音が上から聞こえてくる。
ゼッタはただ事ではない雰囲気を感じつつも、コヨーテからの言付け通り、
右に抜ける通路を走っていた。
後ろから追ってくる者はいない。
ここから地上に出る方法を探った方が良いかも知れないという理性はゼッタの中にもあったが、
何かを期待させる大きな力がある予感を、本能が感じていた。
余裕のあるサイズの通路の先、壁の隅に不自然に縁取られた部分がある。
ドアノブも何もないその四隅をゼッタはノックする。
何だかおまじないみたいだ…と思いつつも、息を吐くようにゆっくりと開いた扉を抜けて、中へ急いで入る。
真っ暗な部屋に脚を踏み入れた瞬間に脚を取られ、ゼッタは地面に叩き付けられた。
背中に当たるごつごつした感触を確かめる間もなく、真っ暗な部屋の中をゼッタは滑り降りていく。
ゆったりとしたカーブを描いて滑り降りる感覚は螺旋階段だと気が付いたが、下に50mは続くそのデラックスな遊具から降りるには高度がありすぎた。
無数のローラーには発電機能が仕込まれているらしく、うすぼんやりとした光がゼッタのいる部分の照明を灯す。
止まることなく滑り続けるゼッタは、滑り台の内側に階段のように広い段差が用意されていることに気が付く。
段差はとても人間が上り下り出来るサイズではない。
白い虎とは、おそらくカラクルのことなのだろう。
ローラーのガラガラ回る音にようやく耳が慣れた頃、突然滑り台は途絶え、ゼッタは前のめりに地面に叩き付けられた。
痛む顎を気にしながら立ち上がり、上を向く。
人を感知した部屋は全体のライトが順番に点灯し、ゼッタの視界を広げていった。
「これは…」
青白いライトが照らし出したのは、同じく青白い色をしたカラクル。
固定用の鉄柱が四方に張り巡らされているが、その厳重さは、むしろそれの暴走を抑えるための拘束が目的のようにも感じられる。
うっすらと青い純白の装甲板には、つやつやとした黒い帯状の筋が入っている。
なるほどこれは白い虎と形容されても当然だろう、とゼッタは思った。
黒い帯の筋は幾何学的な模様を描きながら全身を巡っている。
呪術的なタトゥーにも見えるそれは純粋に美しいと思えるものだったが、
断続的に続く振動でゼッタは我に返り、次にする行動を探った。
ハスキーと殴り合うコヨーテ、異常な目をしたオオカミの一族、そして最後にゼッタから全てを奪ったワニの不遜な顔が頭に浮かぶ。
目の前にはパイロットの搭乗を待ちかねたカラクル。
「据え膳食わぬは何とやら、だな」
白いカラクルの胸から伸びたワイヤーを掴むと、ゼッタは手元に位置するスイッチを押して、ワイヤーを巻き取らせた。
状況に慣れ始めたオオカミ連中までが飛び掛かり、コヨーテの動きを妨げるようになると、今度はハスキーに分のある戦いに移り変わった。
コヨーテにとって多少の乱戦は問題ではなかったが、オオカミには噛み付く奴もいたので、その度に戦意を削がれなければならなかった。
「いだだだ、離れろボケが!」
噛み付く奴から蹴り飛ばしてはいるが、思わず罵り文句が口から出てしまう。
そしてオオカミの相手をしている間に、ハスキーが隙を縫って格の違う打撃を繰り出してくる。
「あのユキヒョウ君、あのまま逃げたかなあ…ここでアレやっちゃうと後が面倒だし、しばらくこのまま持たせるしかないか」
機体に取り付くゼッタは巨人にしがみつくこびとのような風情であったが、
どうにかこぢんまりしたコックピットに収まることが出来た。
人を感知してインターフェイスが起動し、鎮座する豪華な椅子を、周囲を取り巻くディスプレイの明かりが照らし出す。
ゼッタからは見えないが、この時ヘルメットを被ったような頭部の隙間から、一対の目にあたる部分と額の部分の三カ所が青く発光した。
革張りとも布張りともつかない不思議な感触のシートに腰を下ろすと、
ぐいっと下に引っ張られる感覚にとらわれる。
見たこともない文字が一瞬並んだものの、すぐに切り替わり、【INERTIAL CONTROLER IS RUNNING】と書かれたモニタが上から降りる。
ゼッタの視界を隠すように正面にセットされた途端、今度は【Who are you?】とモニタが問い掛けた。
おそらく音声入力だろうと思い、ゼッタは「ゼッタ・オル・サイポック…」と呟く。
【Zetta Al Cypoc】という表示に惜しい、と思いながら「c, i, p, o, cでサイポック」と喋ると、次
に鋭い光や体中をくすぐられる妙な感覚が体中を巡る。
【I know you.】とだけ表示された無愛想なモニタに少し不愉快になりながらも、恐らく個人生体情報を取られたのだろうと解釈した。
カラクルについての本なら昔読んだことがある。大昔の高級機はパイロットの生体データをIDとして登録出来るのだという。
新品なのか、と少し緊張したゼッタをよそ目に、目の前のモニタには再び判読も出来ない文字が流れる。
どこか別の国で作られたんだろうか、それにしても見たことがない文字だ…とゼッタが思っていると、再び
【MODULE CHECKING : 956633151 /956633151 ALL OK】と表示された。
途方もない数の部品で作られたのであろうこのカラクルは、数秒で全ての部品のチェックを完了したらしい。
つくづく昔の科学は魔法だなとゼッタは感心したが、操作方法の見当が付かない。
一般的なカラクルであれば、安いものであれば数十ものレバーとペダルを駆使して操縦する。
しかしこのカラクルの入力は両手で握りしめられる分だけのコントロールグリップ、
両足を置くだけのペダルしかない。
「操作はどうすれば良い?」
駄目元で聞いてみると、目の前のモニタに何個かの操作方法が表示される。
【KUNG-FU FIGHTING INTERFACE】という項目を無視して【DIRECT MAN-MACHINE INTERFACE】を選択する。
モニタを中心に外の風景がコックピット中に拡がり、浮いているような錯覚にゼッタは驚くが、
有無を言わさず今度は身体が拡大していくような感覚にとらわれる。
自分自身の身体に加え、一回り外に自分の身体が存在する違和感。
青く光っていた三つの目は白色を経由してオレンジがかった黄色へと変貌した。
頭の中で一回り外にいる自分の腕を動かすと、半透明の白い腕がモニタの脇から伸びる。
「凄い…」
思考をそのまま操縦に反映させることで得る機動性は、幾本ものレバーを駆使するタイプのそれを凌駕する。
カラクルに乗ったことはないわけではないが、これほどまでに高度化された操作系はまず現存していない。
【Who am I ?】
見当違いな質問がモニタに浮かぶ。つまりこの白いカラクルの名前を決めろ、ということなのだろうか。
「え、ええと、急に聞かれてもなあ…白、白いもので…」
咄嗟にゼッタの脳裏に浮かんだのは、彼がここまで乗ってきた白いバイクだった。
彼の体格にはいささか小さいそのバイクの名は、Elmetta Juggernaut。
「ジャガーノート!」
正しいスペルが自動的に入力され、モニタが透けたように前面の風景を映し出す。
「まずは、助けた礼をしないと……」
ゼッタと機械言語を介して一つになった白い巨人は、固定用器具など無かったかのように鉄柱を引き千切りながら悠然と歩き出し、
目の前にあつらえられた螺旋階段を駆け上がった。
「…動いたか」
コヨーテが耳をそば立てる。
襲い掛かってくるオオカミは一通り倒したが、ナイフをどこからか取り出したハスキーとは膠着状態が続いている。
つい先ほどまで十字架を運搬していたカラクルは振動で調子を悪くしたらしく動かなかったが、ガタガタと妙な音を立てて再び歩き出し、
ハスキー達のいる側まで寄ってくる。
カラクルに気を取られてしまってはハスキーの思う壺だ。
予想外に厄介なことになってしまったとコヨーテは後悔したが、
強化コンクリート製の壁を突き破る衝撃音に集中は掻き消された。
続いてドカドカとカラクルの足音が聞こえてくる。
カラクルの脚は衝撃吸収と足場の保護のためにきわめてソフトな歩行音を立てるが、
勢い良く走ればその限りではない。
次の瞬間にはすぐ後ろのがらくたのようなカラクルは白いカラクルに胴を殴り飛ばされ、
向かいの壁まで吹き飛んだ。
数十トンもの鉄塊が壁に叩き付けられる衝撃音は凄まじく、
崩れた壁と地面に倒れ込むカラクルに巻き込まれた者もいたようで、
揺れが収まるのを静かに待つオオカミ達をパニックに導いた。
『大丈夫ですか?』
カラクルを殴っておきながら拳にも傷一つ見られない白いカラクルが、
足元にいるコヨーテを見下ろす。
「大丈夫じゃない。今問題なのはそんなガラクタじゃなくこの犬野郎…あれ」
騒ぎに乗じてハスキーのラミナは姿を消していた。
オオカミ達の悲鳴と怒号の中、ジャガーノートはうまくコヨーテの声を拾い上げる。
「まあいい、とりあえず上の対処だな次は。俺を手に乗せて運んでくれ」
『わかりました』
ゼッタはジャガーノートを座り込ませ、手を床に置く。
その頃倒れ込んでいたカラクルが再び動き出し、不完全な動きで立ち上がった。
逃げ惑うオオカミを避けて白いカラクルまで向かうことこそ出来たものの、
センサーの半分以上が死んだカラクルでは、宴の場の中央に控えた大きな油鍋を避けることが出来なかった。
足に引っ掛かった油鍋からは大量の油が川のように流れ出し、燃料として使っていた高熱引火剤の熱は油に火を纏わせた。
大量の油が火を運びつつ床を這い、次々とオオカミ達を呑み込んでいく。
炎に包まれる様はゼッタが見るセンサー越しの視界にも見えたが、自分達が縛り付けられ、先客の痕跡がこびり付いた十字架が視界の隅に映り、
消火剤、と言おうとした口を噤ませた。
彼らは報いを受けているだけだ、という深く黒い声がゼッタの中に湧き上がり、思考を鈍らせる。
「おい、中に入れろ!」ドンと右手首に軽い違和感を感じ、ゼッタは我に返った。
オーバーサイズな袖のようにも見える装甲板を、コヨーテが殴りつけていた。
「消火剤!」
腕らしき画像がディスプレイの隅に映り、【FIRE EXTINGUISHER】という表示と共に、左腕の袖からノズルのようなものが伸びた。
ノズルに意識を集中し、頭の中でイメージするだけで消火剤が噴射される。
間違って右腕に乗っているコヨーテに勢い良く消火剤を掛けてしまったが、構う間もなく真下のオオカミ達に噴射する。
足元に白い雲海が拡がるが、ゼッタから見たディスプレイには、視界以外のセンサーで捉えた情報が随時反映され、ある程度の人の動きが見えた。
炎の勢いは止まったものの、高音を示すらしい赤い染みのような表示は床一面をじくじくと染めている。
消火剤の雲に埋もれながらも、ダディと呼ばれた首領は一歩たりとも動いていない。
声を掛けようと人を避けつつゼッタは歩み寄ろうとしたが、腕の上で咳き込む存在を思い出した。
「よくもやってくれたな……さあ、宴会は終わり。外のカラスを追い払いに行くぞ。コックピットに入れてくれ」
真っ白なコヨーテが消火剤を払いながら白いカラクルを見ていたが、思い出したように首領の方を向き、
「悪食の代償だな、ダディ」と笑いながら言い放った。
『地表部の30%は削り取れたが、ここの地盤はかなり堅いようだ』
『黒猫の情報は確かだったようだな。この地下に何かあるとしか』
『上から押し潰す策は無理か。攻撃を中止して様子を見る。センサーはフル稼働で地上に向けろ』
背中を丸めてうなだれていたウムラウト達が姿勢を正し、真下を注視する。
先ほどとはまた別の通路を、白いカラクルは歩く。
足元にちらほらとオオカミ達の住処であろう生活道具が置かれているが、なるべく踏み散らかさないようにゼッタは歩いていた。
「この辺りの天井に丸い扉があるはずだ。それを外せば外に出られる」
消火剤の粉をコックピット中に振り落としながら、白いコヨーテが呟く。
ゼッタは足元のバッグをまさぐって、中からタオルを取りだしてマイロに差し出した。
パイロットシート後ろの狭いスペースから口出しされた通り、天井に丸い線が引かれている。
乱暴な振動はなりを潜めたが、ゼッタの胸騒ぎは収まらなかった。
手足のように自由度の高いカラクルの操作にも慣れてきたゼッタは、小声でメインモニタに呼び掛ける。
「武器は?」
デフォルトで用意された剣、銃、槍、大きな筒状の武器の画像の他に、それとは別枠で盾のような板と、膨大なリストも併せてモニタに映る。
これだけの数の武器を搭載出来るわけがない、ただのオプションのリストだろうかと思いながらも、ゼッタはトンファー、と小さく声を出した。
リストから自動的にピックアップされたトンファーの画像がモニタに出る。
グリップやバーの先にスパイクの付いた、かなり攻撃的なデザインのトンファーの画像がモニタに表示された。
同時に、先ほどまで消火剤のノズルが伸びていた両腕の袖から、今度はにょっきりとトンファーの先が出てくる。
まるで竹が成長したかのように生えてきたトンファーはグリップが掴める長さまで達したところで動きを止め、
モニタには連動して【TONFA STAND-BY】の文字が躍る。
「使い方がわかるのかい?」
シートにしがみつくコヨーテが頭を拭きながら、怪訝な顔でゼッタを見る。
「使い方が頭に入ってくるというか…思い出すような感じです」
それは決して誇張ではなかった。
トンファーが用意された瞬間に、昔の記憶を思い出すように使用法が頭に湧き上がってくる。
その大半は自警団時代に学んだ心得だったが、いくつかの新しい使用法もゼッタは手に入れたようだった。
「じゃ、後は実践だな」
トンファーを袖から引き抜き、手首のスナップで腕の後ろ側へバーを回転させる。
コヨーテがにやにや笑う気配を後ろに感じつつ、ゼッタはジャガーノートを屈ませ、頭上の丸い扉を力一杯殴り付けた。
大量の土煙と共に大きな音を立てて吹き飛んだ巨大で分厚い鉄板は、
ウムラウトのセンサーに絶叫に近い音量のアラームを鳴り響かせるのに十分なインパクトだった。
鉄板が大地に垂直に突き刺さるのを横目に穴から這い出した白いカラクルは、
上空に漂う三つの機影を即座に捉えていた。
「コヨーテさん、何かいます!」
「俺の名前はマイロだ。マイロ・アナンシ。来るぞ!」
ジャガーノートのセンサーが警告するよりも先にマイロが叫んだ。
空に浮かぶ3つの人影が腕をこちらに向けた。
閃光とともに白い筋が猛速度でこちらに向かってくる。
その筋の先にあるのは、先の尖ったミサイル。
雨のように降ってくる小型のミサイルを見据え、トンファーを構えるジャガーノート。
「おい、まさか……」
「俺が使えるのはトンファーだけです。避けられる物は避けて、無理なものは叩き落とします!」
珍しく緊張した様子のコヨーテをよそに、ゼッタは目の前のミサイルの雨を見据える。
ジャガーノートがトンファーを構え、前方に走り出した。
続く |