「いい加減起きてくれませんかねー、お客さん」
ドアを殴るようにノックする音と無愛想な声で目が覚めたゼッタは、慌ててベッドから起き上がった。
胸元に下がった時計を見ると正午を過ぎている。
「は、はいすいません、今出る準備をします!」
夢だと言われても納得してしまうような、怒濤の一日の疲れは相当なものだった。
その出来事を頭の中で整理しながら、もう一つのベッドが空になっていることに気が付いた。
そこに寝ていたはずのコヨーテに代わって、手紙が横たわっている。
背中の毛皮の寝癖が直らないことに苛立ちを憶えながら支度を済ませたゼッタはその手紙を取り、慌てて部屋を出た。
”この手紙を見ている時には俺はもう集落を出ている。
昨夜はありがとう、毛皮を盗られないように気をつけた方が良い。”
思わせぶりな”昨夜はありがとう”の文字にゼッタは背筋を凍らせた。
ユキヒョウのラミナは珍しいからと、厚い毛皮を散々撫で回されたのだった。
酔った勢いもあってネコ科の遺伝子が出たせいか、ゴロゴロと喉を鳴らしてしまった自分に恥ずかしくなりつつ、
ゼッタはさらに手紙を読み進めた。
”時計にはジャガーノートの物理的な、つまりハードウェアのデータと、電子的な、要はソフトウェアのデータが格納されている。
使いたいときに時計の上にあるスイッチを押せば、周辺の空間から適当に電子、陽子、中性子なんかをかき集めて形にするようになっている。
あとの使い方は適当に操縦していればわかる。
ちょっと野暮用があるので一旦君のもとを離れるが、そのうち再会出来るだろう。”
「再会、ねえ」
広大な土地に散ったいくつもの集落の中から人を見つけ出すのは難しい。
マイロに頼み込めば、まさに今自分が居所を探っている人物も簡単に探し出してくれるかも知れないとゼッタは期待したが、
まだ”連中”に会う覚悟は出来ていないので、その考えはしまっておくことにした。
”追伸……ユーロの連中の幹部に黒い猫がいるはずだ。こいつが出てくることは滅多にないはずだが、
もし見つかれば君のジャガーノートでもまず歯が立たない。
すぐに逃げるように。無事を祈る。”
黒猫のラミナは、少なくともゼッタのいる地域ではさほど珍しい存在ではない。
それにしても、なぜ遠い大陸の、よくわからない組織の幹部のことなど知っているのか……
ゼッタの頭に昨晩の常人では考えられないマイロの食事量が蘇り、考えることをやめた。
十字架に雁字搦めという悪趣味な拘束からあっさり抜け出し、鎖を引き千切るような真似をするコヨーテに常識は通じないだろう。
ゼッタにとって衝撃的だったのは、あんな目に遭いながら揚げ物を平然と平らげられる神経だった。
コヨーテのラミナを見たのは彼が初めてだったが、他のコヨーテもこんな調子なのだろうか。
市場に着いて、ゼッタはバッグの中を探った。
クリアフィルムのようなものが何十と連なった中身はおよそ使い勝手を考えていないようにも見えたが、
中に入れたものを二次元化処理し、バインダーファイルのように持ち歩ける”前時代的”な代物だった。
ゼッタが孤児院に預けられた時に唯一持っていた品物らしいが、
彼はバッグに両親の面影を見出すようなセンチメンタリズムは持ち合わせていなかった。
物心ついた時から、なぜバッグを売った金で自分を育てようとは思わなかったのだろうか、と他人事のように考えていた。
ゼッタの名はミドルネームとファミリーネームも含めて孤児院で付けられたもので、そのような考え方をするようになったのかも知れない。
孤児院の先生は程良い距離感で接してくれたし、友人達とは兄弟同然で育ったので孤独感に苛まれるようなことはなかったが、
3ヶ月前に突然レイチェルと故郷を丸ごと失った喪失感は、彼の心のバランスを挫くのに十分なインパクトを持っていた。
そして今彼がするべきこと、それは故郷から離れた土地に住む友に会い、ありのままを伝えることだった。
彼の暮らす集落はまだまだ先だ、それまでにどう伝えるか考えなければ。
足許を掬われたような状態が続いている自分が、どう友人に説明出来るだろうと悩みながら、必要なものを思い返した。
バイクを新調しなければいけないことを思い出し、ゼッタは舌打ちした。
集落を移動するのに歩行では絶望的だ。
”カラクルの方の”ジャガーノートに乗って全力疾走すれば数日で着くだろうが、
あれほどの高級品が単機で移動していれば、
賊が黙って見過ごすわけがない。
おまけに集落にとって、余所者のカラクルは治安を乱す敵である。
そんなものが向かってくるとなれば、防衛用の長距離砲で狙撃されても文句は言えない。
集落を出る時に掻き集めた金で足りるだろうか。
前のは死んだ友人の形見を拝借したため体格的に小さすぎたので、足りるなら今度はもう少し大きいものにしよう。
「あ、あの……ゼッタさん、ですか?」
名前の主がびくついて振り向いた先には、おとなしそうな白いイヌのラミナが立っていた。
黒い猫じゃないよな、と胸中で安心するゼッタが頷くのを待たずに、イヌのラミナが続ける。
「マイロさんという方からの言付けで、ゼッタさんにバイクを渡すようにとのことでお探ししてたんです」
「は……はぁ!?」
霧が晴れ始めたロンドンの街は、かつての文明時代とはまた違った雰囲気を出していた。
それほど高くはない建築物が余裕のある間隔で建ち並び、その中から飛び出すようにダイアクリティカルのビルが聳えている。
「おはよう、リンダ」
「おはようございます、イクトミ様」
小柄な黒猫のラミナが、華やかな彼の秘書に挨拶をする。
「僕は何時間寝たかな?」
「最後にご挨拶させて頂いてから30時間です」
「上々」
「お食事は?」
「結構。これを広報用に」
イクトミが手渡したのは記録用メディアだった。
「何が記録されているんですか?」
「色々と。寝てる間に組み上げたんだ」
当たり前だろ、という顔で黒猫が微笑みながらリンダを見つめる。
「寝てる間に、って……確認してからプレスに回します」
「よろしく。僕はあの方にオペレーション実行の承認を得てくる」
イクトミは人差し指を上に立ててリンダにウインクしたが、秘書の顔は曇ったままだった。
「その前に見て頂きたいものが……」
「確かにバイクは買おうと思ってたけど、マイロさんが何で勝手に……」
「きっと必要だろうから、って直々に選ばれてましたよ。ゼッタさんの分ももう代金は頂いてます」
盗難防止のために仰々しく設置された門を抜け、その先にある倉庫に入ると、イヌのラミナはあるバイクの前で立ち止まった。
艶やかな赤いボディの大型バイクと、その後ろには人一人を乗せられるようなシートの付いたカーゴ。
「……大丈夫かあの人」
ゼッタにとってのマイロの謎がまた増え、頭痛がのし掛かった。
「無許可でロケーションパスを使った挙げ句、客人を連れてきた?」
慌ただしく歩くイクトミにリンダが辛うじて付いていく。
「リガチェフ・デザイアはそう言っています。現地人は何とかブリーフィングルームに拘束している状態です」
「随分暴れん坊だねえ……リガチェフ君にもしっかりお仕置きをしておかなきゃ」
通路に倒れ込むスタッフ達の上を通り抜けながら、イクトミはガンガンと激しくドアを殴り付ける音のする方へと歩みを進めた。
ドアのガラスは割れることなく、部屋の中で大暴れするハスキーをイクトミに見せた。
ブリーフィングルームの中の質素な椅子を振り回して、ドアを叩き付けているらしい。
「どこで拾ってきたか知らないが、しつけをやり直さなくちゃね」
躊躇うことなくイクトミはドアを開ける。
猛進してくる大柄な大型犬にリンダは目を覆ったが、次に大きな音が聞こえて視線を遣った先には、
部屋の奥に吹き飛ぶハスキーの巨体と、何事もなかったかのように立っているイクトミの姿があった。
整然と並んでいた残りの椅子にハスキーが突っ込み、そこへ黒猫がつかつかと歩いて行く。
「今ので腕が折れたかな?」
呻くハスキーの顔を覗き込んで何かを呟いた後、イクトミはハスキーの脛を力の限り蹴り上げた。
言葉になっていない叫びをハスキーが上げるが、黒猫は意に介することなく振り返り、リンダに新しい仕事を依頼する。
「偵察部隊をもう一度だけ現地に送れ。それと、もう一人の問題児は君の方で頼むよ。こっちは僕が何とかする」
「……わかりました」
上司の全くもって意外な一面を見てしまったリンダは動揺はしていたが、慌ててリガチェフが拘束されている部屋へ向かった。
「名前を言わないと今度は脚だ、って言ったよ」
余裕を含んだ笑顔でイクトミがハスキーを見下ろすと、ようやくハスキーは呻き声以外の声を上げた。
「ヴェ、ヴェルーガ・リッジ……」
「粗野なくせに良い名前じゃないか。色々聞きたいことはあるけど、とりあえずその骨折の治療だな」
自分のスケジュールを狂わせる予想外の来客にイクトミは苛立ちを感じていたが、今は目の前のハスキーに心を奪われていた。
痛みに負けて名前を吐いたヴェルーガは、復讐心を含んだ感情の目を自分に向けている。
暴力的な野心と、得体の知れない強さに怯える恐怖心がない交ぜになった複雑な視線にイクトミは魅了されていた。
「もうずっと昔に飽きたと思ってたけど、やっぱり感情の昂ぶった人間の目は良いなあ……」
「ふざけ…やがって!」
腰の後ろに持っていたコンバットナイフを折れていない左腕で持ち、無事な右脚で咄嗟に立ち上がったヴェルーガは一気にイクトミの胸に突き立てようとする。
「でも、無駄なものは無駄だ」
ナイフを握った手首を掴み、そのまま強く引いた勢いで、イクトミはヴェルーガの胸に膝蹴りを入れた。
今度は声を出す余裕もなく、巨大なハスキーのラミナはその場に崩れ落ちる。
「どんなことをしようが、君は僕に逆らえない。それは君の足りない頭でもわかってくれたかな」
「ここのスイッチを切り替えると、一旦アームのロックが解除されて……」
イヌのラミナがハンドル近くのコンソールパネルを操作すると、
バイクとカーゴを繋いでいたアームが動き出し、カーゴをバイクの側面にぴったり沿うように移動させた。
「サイドカーになるんです」
「なるほど」
「マイロさんは同じバイクでカーゴのないタイプを購入されましたよ」
「こんな高級なのを二台も……結構金持ちなんだなマイロさんって」
「これ、鍵です。早速乗ってみます? 何だか嬉しそうだし」
跨ってハンドルを握っていたゼッタの表情は無意識に表に出ていたらしく、
ミラーに映ったニヤニヤした顔と、必要以上に振れる尻尾を慌てて正した。
気分を引き締めて見た視線の先には、修理中らしい古いカラクルが立っている。
「あぁ、はい。でもその前に市場で買い物をしなくちゃ。あとここはカラクルの取扱も?」
「してますよ。カラクルに乗ってるんですか?」
胸元にペンダントのようにぶら下がった時計をゼッタは手に持った。
「ここにね」
「何だか嫌な予感はすると思ってたんだ」
メタリックオレンジの塗色が眩しい大型のバイクを数時間飛ばしてマイロが到着したのは、
昨日ジャガーノートとウムラウトの群れが激闘を繰り広げた場所だった。
マイロの目の前には円状に大地が抉られた跡が残っている。
「生き残りがいて、しかもユーロにまた帰ったと見て間違いないとして……出て来いよ、人食い連中」
声を荒げたコヨーテに反応して、草むらから黒いオオカミのラミナが数人顔を出した。
「何の用だ。我々の宴を潰すような奴は食わない」
「ここで何があったんだ?誰か光の中に消えたとか?」
一人はこちらを見ているが、残りは何か慌ただしく話をしているようだった。
「白いオオカミと我々の用心棒が消えた」
「用心棒……ああ、あの頭の悪そうなイヌかい」
「お前は白いオオカミじゃなかったのか?」
「……人違い、じゃないかな。多分」
よくわからない質問を返されたマイロは気にせず続ける。
「食わないんだったら、お前らの根城をもう一度探らせてくれ。昨日みたいなワナにまた掛かると思ったら間違いだぞ」
トラバサミの跡が残るパンツを摩りながらマイロはオオカミ達を見たが、皆空中を見上げるばかりでこちらの話を聞いていなかった。
オオカミ達がざわつき、空を指さす。
「光の球だ」
「白いオオカミとヴェルーガが消えた光だ」
マイロも見上げると、そこには消えつつある光球と、その中に三つの鳥のようなシルエットが覗く。
「随分遅い第二波だな。おい、そこのオオカミ共」
もう一度声を掛けると、再びオオカミ達はこちらを見た。
「このバイクが潰れないようにどこかに避難させておけ。お前らを守ってやるんだからそれぐらいはしてくれよ」
バイクから降りるとオオカミ達がそそくさとバイクを取りに来たが、マイロはすれ違いざまに
「壊したり分解したらぶっ殺すから」
と釘を刺して、空に浮かぶウムラウトを見据えた。
「人間相手には警戒もなしかい。さて、隠す相手もいないし、エネルギーもまだ十分ある。久々に暴れさせてもらいますか」
マイロが両腕で頭を抱え、その場にうずくまる。
苦悶の呻き声がしばらく続き、唐突に頭を上げたコヨーテは、傾きつつある太陽と白く透けるように白い月、そして鳥のようなカラクルの飛ぶ空へ遠吠えを繰り返した。
周囲に潜んでいた黒いオオカミ達も遠吠えに本能で同調し、悲しげな鳴き声が砂地の平原に響き渡る。
その鳴き声の中で頭を両腕で掴んだままマイロの影は人の形から大きく脱し、異形の巨人へと姿を変えた。
ウムラウト達のパイロットは眼下に広がる光景の異常さにようやく気付いて攻撃態勢を整えたが、
データを衛星に届ける間もなく、彼らの機体は四散した。
「……とりあえず、今聞いた話は全てイクトミ様にお伝えします」
尋問室でくたくたに疲れ切った様子の白いオオカミは全身にわたって怪我をしていたが、
リンダは意に介することなく数時間に渡る質問攻めを続けていた。
「あ、あの……私はこれからどうなるんでしょうか」
端正な顔を血で汚したリガチェフが、恐る恐る秘書に聞く。
「さあ?それはイクトミ様が決めることです」
「もし可能なら、私にあの白いHFAへのリベンジの機会を…」
「伝えておきます。それに…」
リンダはリガチェフの手を恭しく引いて椅子から立たせ、自らの身体を抱き寄せさせるように押し付けた。
「あなたみたいな人、私は嫌いじゃないですし」
「あ……あの……」
「だから頑張って」
「が、頑張ります……」
体を硬直させたリガチェフから離れ、リンダは尋問室を出た。
歩きながら穏やかな笑顔を解き、冷めた目で前を見つめる。
「あれだけで反応するなんて、男って本当に馬鹿…イクトミ様にも同じ手が通じれば良いのに」
一方リガチェフは椅子に座り込み、顔を赤くしていた。
「良い…人だなあ」
「よし、出すぞ!」
「はい!」
ゼッタは恐る恐る時計のスイッチを入れ、広大な空間が拡がる倉庫に向けた。
アウトラインを描くワイヤーフレームのようなものが時計から飛び出し、
一筆描きのように空中に線を引いていく。
巨大なジャガーノートの形状になった時点で全体が光に包まれ、次に目を開いた時には、
前回の戦闘の痕跡が一切ない、新品同様のカラクルがそこに立っていた。
ただし両腕のホルダーにはトンファーが付いていて、地上高くに聳える頭部の奥の目は黄色い。
前回起動時の設定がそのまま反映されていることは知らなかったが、ゼッタは改めてジャガーノートをまじまじと見つめた。
落ち着いた環境で眺めるのは初めてだったが、見れば見るほど奇妙なデザインをしていることに気がつく。
白いカラクルと解釈していたが、実際には機械色とはやや異なるメタリックな質感でダークグレーに統一された素体に、
白い装甲板が重ねられている。
その装甲板の上にはガラスのような質感の黒くて太いラインが幾何学的に走り、全体を引き締めている。
これがジャガーノートが虎をモチーフにしていると思わせるキーなのかと思ったが、良くみれば黒いラインは素体の上も走り、
まるで装甲板が浮き上がらないように留めているような印象を与える。
首と手首、足首の部分には薄いリングのようなものが関節を邪魔しない範囲で挟まれていて、ブレスレットやアンクレットを思わせる。
胸はコックピットハッチは当然だが、分厚い装甲のブロックが何個か組み合わさり、
その上にはこれまた重厚な装甲板で覆われた頭部が鎮座している。
頭部は人の頭にヘルメットを被せたような形状だが、ラミナのように口吻が飛び出しているわけではない。
顔の部分はマスクのようなもので覆われ、その縁を黒いラインで引き締めている。
ただしヘルメットにも他の装甲板と同じく黒いラインが走り、さらには耳のように見える突起が虎らしさを強調していた。
通常の一対の目の他に、その直上に三つめの目が輝いている。
通常のカラクルなら視界確保のためにカメラを複数個設置することも珍しくないが、
人の顔を執拗に再現しているようにも感じられるジャガーノートでは、目の存在感が異様に強く感じられた。
「凄い…凄いですよこれ、こんな程度の良いカラクル見たことないです!しかも格好いい!」
「それはどうも。市場に行ってくるんで、その間見てもらってて良いよ。一回乗っただけで、使い方が良く分からないんだ」
尻尾を振って喜ぶイヌのラミナに声を掛けて、ゼッタは倉庫を出て行こうとする。
「え、良いんですか?じゃあ細かい調整なんかはこっちでやっておきますね!」
「頼むよ。あ、そういえば名前は?」
「シエナ・ミルです!一応この店の技術長です!」
興奮状態のまま答えるシエナに苦笑いしつつ、ゼッタは倉庫を出た。
「ヴェルーガは入院させたよ。うっかり肋骨を折りすぎてしまった」
面倒そうな顔をしながらサロンで足を組むイクトミを横目に、リンダは資料を差し出した。
「今朝お預かりしたものは広報へ渡しておきました。これはリガチェフから聞き出した資料です」
「多分あの馬鹿は大した情報を持ってはいまい。そうだ、ヴェルーガとリガチェフはチームを組ませてリワインダと戦わせよう。きっと面白いぞ」
「手配します。イクトミ様はもう承諾はお取りになったんですか?」
「今から、だよ。二回目の偵察もまた落とされた。今度はデータを送信する間もなくね」
むすっとした顔で椅子から立ち上がり、エレベータへ向かう。
「CEOに会うというのは、何度経験しても慣れない」
床以外は全て透明素材で作られたエレベータに乗り込むと、最上階のボタンを押す。
音もなく上昇する中、イクトミはガラスの向こうの風景を見つめていた。
群がる建築物の高さを超えると、市街の周辺を取り囲む森林、さらにその向こうには海が見える。
「人口増加に伴う土地と資源の逼迫に伴う植民計画か。ちょっと理由付けには苦しいかな」
「大衆は政府を信じています。彼の地のことは知りようがありませんし。私も、ですが」
「1500年ぐらい前、この土地とアメリカ大陸とで人と物が行き交った。それをもう一度我々は行おうとしている」
「大航海時代ですね。でもリワインダというHFAは、それほど計画の障壁になるのでしょうか?」
「実を言うと確証はない。所詮は道具だ。今の使用者がどういう意図であれを動かしているかは知らない」
「……?」
「移住と資源確保のためなら、あんなものは無視して、無政府状態の大陸なんか勝手に領土にして、
勝手に人を移せばそれで済む。でも僕の感情がリワインダを許容しない。まずはリワインダを始末しなければ」
「何か積年の恨みでも?」
今ひとつ容量の掴めない話が一気に押し寄せて混乱したリンダは冗談で返したが、
イクトミがいつになく真剣な顔で外の風景を睨んでいるのを見て口を噤んだ。
「……まあ、そんなところだね。全くもって非効率的な執着心さ」
「いい加減起きろよ、ラッキーガイ」
頬を叩かれ、ウムラウト偵察部隊のパイロットが目を覚ました。
何かが迫ってくる直前に非常脱出装置を作動させたまでは憶えていたが、今目の前にはイヌ科動物のラミナが、そして周辺にはウムラウトの残骸が転がっている。
侮蔑を含んだ表情で自分を見下ろし、胸を脚で押さえつけているその男は、億劫な様子で口を開いた。
「死ぬか答えるかだ。ここまでお前を寄越した奴は誰だか教えろ」
自分に押し当てられた脚がラミナの体格にそぐわないほど強烈であることを感じながら、パイロットは奥歯を舌で探っていた。
「悪いけど先走った真似はさせないよ。しかし古典的だねえ、毒物入りの差し歯なんて」
小柄なオオカミのようなラミナが手に持った歯を放り投げ、さらに億劫そうに続ける。
「拷問なんて面倒なことはしないよ。答えなければここで殺すだけ」
「…イクトミという男だ」
パイロットはあっさり屈したが、ラミナはまだ気が晴れない様子だった。
「そらみろ、ビンゴだ。違う奴の名前言ったら君の命はなかったよ。あと、俺はコヨーテだから」
不機嫌そうに振り向いてコヨーテのラミナは去っていったが、
なぜ種族が判別出来ないことを知られたのかと焦ったパイロットには、受難が待ち受けていた。
遠ざかるコヨーテに黒いオオカミ達が駆け寄り、何かを話している。
「好きにしろよ」とコヨーテが呟いたのは聞こえたが、その瞬間オオカミ達の表情が変わり、腹を空かせた目でこちらを見据えた。
パイロットは彼らが開拓しようとしている土地が、予想以上に野蛮で狂った土地であることを今から知ることになる。
先ほどの悲しげな遠吠えと異形へ姿を変えたことから、オオカミ達はマイロに対して畏怖と警戒の念を持っていた。
地下への入り口の周囲で耳を下げてマイロを見ていたオオカミ達の一匹が、慌ててバイクを持ってこようとする。
「バイクはまだ良い。それより地下へ入れろ」
「ただいま、っと……あれ。シエナ君?」
ジャガーノートの開いたコックピットハッチから、イヌのラミナが顔を出した。
「あ、お帰りなさい。さっきまで外側を見させてもらって、今コックピットを見てるんですけど、これ起動しないですよ」
「故障……?そんな馬鹿な」
昇降用のケーブルを降ろしてもらい、ゼッタがコックピットのシートに座る。
うっすらと青い照明が灯り、シート前のメインモニタに【HELLO, Zetta】と表示された。
「生体認証なんだ……凄い、だから僕だと起動しなかったんですね」
「このカラクルって一体何なんだ?前の持ち主らしい人も得体の知れない感じだし、妙に高級なカラクルらしいし」
横から覗き込むシエナは遠慮無くゼッタの手の上に自分の掌を重ね、
コントロールレバーに付いたボタンを使って、ディスプレイ上の項目を易々と操作していく。
「高級、というと語弊があるかも知れません。技術的に最高峰の装備を持ってるんです。
大昔に人類の技術力がピークだった頃に作られたような、今となっては魔法扱いの途方もない技術で」
すぐ横で瞳を輝かせながらディスプレイに表示される情報を次々と切り替えていくシエナに少し引きつつも、
ゼッタはジャガーノートの素性がわかることに少し期待をしていた。
初起動でスクラップ同然のカラクルはおろか、空を飛べるような高性能なカラクルの小隊まで殲滅させた機体。
それを易々と人にくれてやるマイロの正体に触れることも出来るかも知れないという下世話な好奇心がないといえば嘘になるが、
命を預けることになるであろうカラクルのバックボーンは純粋に気になるものだった。
「あ、あれ。駄目だ」
シエナの指の動きが止まった。
画面にはいくつかアイコンが並び、その隅には鍵のマークが表示されている。
「制作者情報に辿り着けたと思ったんですけど、ここから先はロックされてるみたいです」
「パスワードが必要とか?」
「いえ、多分何か一定の条件を満たさないと解除されないタイプだと思います。
普通、拡張オプションを取り付けた時の個別設計なんかに使われてるはずですけど、
こんな基本的な情報に制限が掛かってるなんて珍しいなあ」
結局何もわからずじまいか、と横で溜息をついたゼッタをシエナが励ます。
「で、でも操作上は何も問題ないはずですし、乗り始めて間もないなら、他の情報を見て勉強しておきましょうよ!」
周りを歩くオオカミ達の覇気がないことを、マイロは薄々感じていた。
「ダディはどうした?この間捕まえて食おうとしてくれた礼も兼ねて、一応挨拶しておきたいんだけど」
「……ヴェルーガが殺した」
群れの一匹が予想外の答えを返したのが聞こえた。
「俺達が白いオオカミを食おうとしたが、ヴェルーガがダディを殺して、獲物を脅して一緒に消えた」
「……つまりあのハスキー野郎がユーロに渡ったのか……それも自発的に」
妙な計算高さを感じさせる機転だと思ったが、一度戦ったマイロとしては、
おそらく偶発的な事態にたまたま勢いで突っ込んだ結果、そうなっただけだろうと結論付けた。
「まあ、あいつ馬鹿そうだったからな。ここからは一人で良い」
「なあ、あんた訳わかんないほど強いし遠吠えもクールだし、良かったらここのボスに……」
「断るよ。お前らこそまともなもの食って、まともな社会生活を送れよ」
無味乾燥な返事を残して螺旋滑り台を落ちていくマイロを、オオカミ達は残念そうに見届けた。
「失礼します」
音もなく開くドアを抜け、イクトミは厳粛な姿勢で部屋の主に礼をした。
「既にご連絡しました通り、リワインダの活動を確認、偵察部隊による初期攻撃は失敗。
予てより計画しておりました排除オペレーションの実行許可について、伺いに参りました」
必要以上に背の高いチェアは窓に向いており、CEOの姿をすっぽりと隠している。
手袋をした腕が横からすっと伸び、軽く手を振るった。
「……ありがとうございます」
イクトミは音もなく広大なCEO室を抜け出し、CIO室である自室へと戻る。
上層階に設置された特別な階段を降りるうちに、イクトミは笑いを堪えられなくなった。
「たったこれだけのためにこれだけのコスト、人員、時間が必要とはね。人間とはかくも手間の掛かる生き物だ。
まあ、これから存分に利用させてもらうさ」
CIO室の机に置かれたホログラムの地球儀を回し、イクトミは椅子に腰掛ける。
「さてグレーゴル。君はどう出る」
「ゼッタ君の奴、何も考えずに動かしたなこりゃあ」
滑り台の億劫さに飽きて飛び降りたマイロは、崩れ落ちた鉄柱の残骸を見て毒づいた。
「ああそうか、固定具のことは言ってないんだったな……さて、残り物は全部持ち出しますか」
鉄骨の破片から少し離れた床面、丸い線が引かれた近くを、マイロは軽く2回靴先でタップした。
静かに丸い床板が上昇し、その下からは操作用端末が床から伸び、ぼんやりとモニタに光を灯す。
「オプションデータをバックアップパスに移行。完了し次第ホストから全データを消去」
音声で端末に操作を入力したマイロは、憂鬱な顔で端末を見た。
「ようやく始まるのか……イクトミには会いたくないな」
処理実行のための署名を端末が求めて来る。
マイロは躊躇いつつも“Gregor Anansi”とモニタに指をなぞらせる。
「この名前を使うのも最後だ」
処理完了、と文字が飛び出し、端末からカードのようなものの束が吐き出される。
トランプのようなスートとランクが記されたカードを手に取り、マイロは部屋を後にした。
裕福な子供のパーティーのように、ジャガーノートの足元にはプレゼントよろしく大量の武装が転がっていた。
その両腕からは次々と大小様々な武器が袖の間から滑り落ち、その下に金属色の小山を作っている。
「これ、一体いつまで作れるんでしょう……ジェネレータスリーブって名前みたいですけど、こんな装備聞いたこともありません」
不思議そうなシエナの声を聞きつつ、ゼッタはマイロからの手紙を思い出した。
「多分、この機体を出した時の応用じゃないかな。腕の袖みたいなものの中で、周辺から物質のもとを拾って作ってるとか」
「それはわかるんですけど、倉庫の中にそんなに元になるモノは転がってないですよ」
「うーんまあ…それもそうだな」
「このカラクル自体の動力源もわからないですし、ちょっとこれは……うちみたいな町工場レベルではわからないかも」
簡単な機動性のテストや内部情報の解析のたびに歓声をあげていたシエナにも疲れが見え始めていることを、ゼッタは感じていた。
「まあ、実用上問題なしならそれでいいよ。色々調べるのを手伝ってくれてありがとう」
子供を褒めるような手つきでシエナの手に無意識に手を置いたが、シエナは少し眉間に皺を寄せてゼッタを見返した。
「あ、あの…多分僕、ゼッタさんより年上だと思いますよ」
「え?」
「ゼッタさんって見た限り20過ぎかその辺りですよね。一応こんなでも、10歳は上なんです……よく間違われますけど」
「えっえええ、す、すいません!」
「気にしないで良いですよ、こんな面白いカラクル見せてもらいましたし。そういえばマイロさんも年がよくわからないですよね」
ディスプレイに散らかった情報を整理しつつ、シエナがぼやく。
「20代後半か30代前半だと思ってましたよ、俺。あの年代特有の気楽さがある感じ」
「見た目はね。でもマイロさんとは父の代から付き合いがあって、その頃から見た目が変わってないんです」
もう妖怪なんじゃないかなあの人、とゼッタは言いそうになって口を噤んだ。
「本当にあの人の素性はよくわからないなあ……」
「そんな人からもらったものなら、わからなくて当たり前ですよ。また何かわかったら、絶対教えて下さいね!」
相変わらず瞳をきらきらさせているシエナを横目にジャガーノートから降り、
背を伸ばしながら倉庫を出ると、外は薄闇に包まれていた。
「もう夜か……」
探れば探るほどマイロとジャガーノートは交互に得体の知れない実態のかけらを見せてくる。
休む間もなく入り込む情報と生まれる疑問にゼッタは疲れ、紺色の空に浮かぶ月を見上げた。
それなりに高いビルが並び、それなりに多くの人々が暮らす先進的な集落は、そのサイズから街と呼ばれていた。
ゼッタ達が月を見ている集落から遠く離れたこの街は、人口に比例して治安も不安定なものだった。
修復もままならないほど老朽化した現役のビルの上を跳ねるように、猫のラミナが飛び移っていく。
荒い息を上げて後ろを振り向いた猫は安堵の表情を見せるが、後ろに生まれた気配に思わず顔を戻した。
「逃げおおせたつもり?」
荘厳な鬣を掻き上げながら、ライオンのラミナが猫のすぐ前に立ち聳えていた。
心底から驚いた逃亡者は思わずナイフを逆手に持ち、ライオンに突き立てようとする。
「邪魔だ!」
「おおっと、危ない危ない」
形式張った警官服を纏った大柄な体格をひょいと翻し、その隙に拳銃を猫のラミナの喉に突き付ける。
「君がナイフで僕を刺すより、僕が君を撃つ方が速い。賭けても良いよ」
「……わかったよ」
猫のラミナがナイフを捨てるのと、ビルの階段を上って来た警官が二人を見つけたのは同時だった。
「強盗の容疑者、確保ー!俺が確保ー!」
ジャーマンシェパードのラミナが手錠を逃走犯に叫びながら装着する。
「またお手柄は自分だけですか?先輩」
「へっへへ冗談だよ、でも狩りはイヌよりライオンの方が上手いな」
「そりゃどうも」
笑いながら返すライオンはイヌに引かれていく猫を見送った後、ビルの屋上から街を見渡した。
前に垂れて人間の髪の毛のようになった鬣の毛先を触りながら、彼の故郷に思いを馳せる。
「レイチェルもゼッタも、こっちに来れば良いのに……今度里帰りして説得してみるかな」
三人で仲良く暮らす光景を思い描き、新人警官のネルガは月を見つめながら微笑んだ。
続く |